握り締めた愛情の絹糸を綱にしよう

とある解離性同一性障害罹患者の随想録

大人という生き物

大人という生き物が、子供の頃から嫌いだった。
大人になったら子供の気持ちを忘れてしまうのか、子供の気持ちを忘れるのが大人なのか、だったら私は子供の気持ちを忘れたくなんてない、ずっと、大人になっても覚えている。


そんなことを思っていた。


この時の決断があったから、私は子供の気持ちを忘れることなくずっと覚えておくことが出来た。


だがしかし、この「子供の気持ちを忘れない」ことが、結果的に自分自身の首を絞めることになるとは思ってもいなかった。
子供の気持ちを当時のままに鮮度を保ち生々しいまま残り続けているものだから、恐れをなして蓋をして見て見ぬ振りをするようになってしまっていた(自分自身の気持ちであるはずなのに)


ああそうだ、心の中でどう思っていようとも、体は成長していく。大人になっていく。子供のままでは居られない。
成長しないでくれとどれだけ頼み込んだって、体の成長は止まらない。大人に"させられる"。子供のままでは"生きていけない"。


悲しかった。苦しかった。辛かった。


私はまだ子供で居たいよ。大人なんかになりたくないよ。あんな汚い大人の仲間入りなんてしたくない。あんな狡い大人と同じになんてなりたくない。あんな醜い大人と一緒になんてされたくない。


抵抗した。何度も何度も。今だって抵抗し続けている。
それでも私は大人になってしまった。
30歳という"イイ歳した大人"の仲間入りを果たしてしまった。
30歳になった今でも思う。
「大人になんてなりたくなかった」、と。
でも30歳になった今だから思う。
「大人になって良かった」、と。


相反する二つの意見に自分自身が切り離されてしまいそうだ。

大人になんてなりたくなかったと思っているはずなのに、大人になって良かったと思ってしまう。


それは何故か。


大人になんてなりたくなかったのは、子供の頃にやり残してきたことが山ほどあるから。子供だったのに"子供として生きる"ことを許されなかったから。子供だったのに"大人として生きる"ことを強要されたから。

何より、自分自身に当時見てきた大人と同じ汚さ、狡さ、醜さを持っているのだと気付きたくなかったから。


大人になって良かったのは、自分自身が当時の劣悪な人間しか居ない環境を異常だと自覚出来たこと。劣悪な環境から抜け出せたこと。自由に生きても暴力を振るわれず暴言も吐かれないと知ったこと。

そして、"子供として、大人として生きる"、この二つを自分の意志で選択出来るようになったこと。


それでもやっぱり「大人で良かった」とは言えない。
そもそも「生まれてきて良かった」と心の底からは言えない。
私にとっては人間に生まれてしまったことが全て運の尽きだ。


人間だからということもそうだし、呪われた一家の元に生まれたことも、地球という星の元に"生み出されてしまった"ことが何よりの不幸の始まりなのだ。
人間なんて存在で居たくない、呪われた一家だとすら思いたくもない感じたくもない、地球という枠組みの中にしか生きられない生物なんかで終わりたくない。


私はヴィトゲンシュタインが定義した世界の"外"へと行きたい。そこで生きたい。暮らしたい。過ごしたい。
世界の"中"なんかで終わりたくない、終わらせたくなんかない。
世界の"中"なんて狭い惑星でしかないのに、そんな狭い惑星でしか起こらない事柄を、自分の目で見てきた事柄しか認識出来ない狭い世界ごときで「全て」を知った気になんてなりたくない。


ああ、疲れた。
書くことも、考えることも、感じることも、思うことも。
何もかも全て。疲れてしまった。

 

2022/03/23