握り締めた愛情の絹糸を綱にしよう

とある解離性同一性障害罹患者の随想録

どうしようもない文章を書くことがどうしようもなく好きだった

いつから始めただなんてそんなことは覚えていないが、気が付いた時には誰に見せるわけでもない文章を書くことが習慣になっていた。


頭の中で考え続けるよりも文字にして可視化してみると自分はこんなことを考えていたのだなと気が付けるし、頭の中ではこうだろうと思っていることを文字に書き出してみると考えていたこととは全く別の形になったり、泣きながら感情を書き殴ってスッキリしたものを後日読み返してみて赤面することが何度もあったり、文字として書き出すということは誰にも迷惑をかけず自分が知らなかった自分に気が付ける。


キーボードをぽちぽち叩いて書いた文章は、誰に見せるわけでもなくひっそりとメモ帳の中に眠っている。


メモ帳の中の文章達は誰かに読んでもらうほどの価値はないし、目的もなく主張したいこともなくだらだらと書いたものなので、そこにはありのままの自分がそこにいて、こんな何も取り繕っていない裸のままの自分を見られるのならいっそパンツ見られた方がマシだと思うほど恥ずかしい。


恥ずかしいと思いながらブログに記事を書いて投稿する。

恥ずかしいと思いながらもいいねをもらえると飛び上がるほど嬉しくなり、喜んだのもつかの間、こんな文章を人様に読んでもらえたのかという現実に直面して恥ずかしくなる。

なのに最初に戻りまた記事を書く。そしてまた恥ずかしい思いをする。なんとも面倒臭い露出狂である。


どうしようもない文章をインターネットに公開しようと思ったきっかけは何もない。何もないけれど、頭の片隅にはずっと十代の頃書いていたブログのことがあった。



更新をやめて十年経ったブログが今でもインターネットに残っている。十代の頃は誰に頼まれるわけでもなく毎日ブログを書いていた。書くということが楽しくて、毎日小説や絵やブログを書いていた。

 

恥ずかしさをぐっと堪えて昔のブログを読み返してみると、純粋に「書くこと」を楽しんでいた当時を振り返ることができて懐かしさを感じると同時に、いつからか純粋な「書くこと」への楽しさを忘れてしまった自分に嫌でも気付かされてしまう。


当時は楽しいから書くことに何の苦痛もなかったし、人に見られることに抵抗なんかなくて、こんな風に思われたら嫌だとか恥ずかしいだとか読まれることに対して思ったことすらなかった。
気が付けば書くことで自分を表現するよりも、人の目を気にして何もしない方を選んでいた。なんともつまらない大人になっていたのだろう。昔の自分に気付かされてしまった。


私がどうしようもない文章を書き続けるのは、この時感じていた楽しさをもう一度味わいたいからなのではないだろうか。



「もう一度趣味を楽しめたら」


そんな軽い気持ちからブログを書くことにした。
最初からガチガチに固めてしまうとすぐギブアップしてしまうので、肩に力を入れずに書いてゆるっと続けることを目標にしている。


数日前からブログの記事を書いていて、引きこもり生活を始めてからこれといった趣味を持っていたことがないことに気付いた。


この六年間、何をして過ごしてきたのか全く思い出せないことにも自分で驚いてしまうが、積み上げてきたものが何もないことに一番驚いてしまう。

六年もあれば生まれた赤ん坊が年長まで成長するのに、私は何もしてこなかった。

そんな現実を改めて突き付けられて少し心が折れそうになる。

 


開き直って何もしてこなかった六年間をネタにしたいものの、本当に何もしてこなかったのでネタにしようにもできないことに苦笑いしてしまう。


無駄にしてきた六年間は元に戻らないし、だらけた六年間を過ごしてきたのは紛れもなく自分自身なので、そんな生活を大いに反省してこれからの人生に活かすことだけを考えるようにする。

 


無味無臭な引きこもり生活を少しでも変えようと足掻き始めた自分を、少しだけ褒めてあげたい気持ちになった。