握り締めた愛情の絹糸を綱にしよう

とある解離性同一性障害罹患者の随想録

循環する人間関係

これまでの人間関係でボーダー発揮しまくっていたのは自分が全部悪かったからだと思っていたのは間違いで、少なくとも相手にもボーダーを発揮させる要因が少なからずあったのだと思えるようになってきた


相手も悪かったんだ!ということを言いたいわけではなくて、人間関係は相互作用のものだから片方だけに100%落ち度があるわけではなく、50%ずつ悪かったところもあるよねということが言いたいのだ


自分が悪いor相手が悪いという極端な白黒思考も少し和らいだということなのかもしれない


人間関係は相互作用で良いことも悪いこともお互い影響し合っているのだと考えると、自分にとって悪い影響を及ぼしてくる人とは、やっぱり距離を置くのが一番懸命な判断なのだな


親と絶縁してから今の彼氏と付き合い始め、とても優しくていい人だし何をしても褒めてくれるし、こんな優しい人と付き合えてることが嬉しいので、毎日いい気分で楽しく過ごせている
初めて人間関係で安心感を覚え、リラックスできているし、ストレスを抱え込まず付き合えていることに自分でも驚く


新しく何かを取り込むにはこれまでのものを捨ててスペースを作らないといけない、これは人間関係に於いても同じ
大好きなお気に入りのものをいつだって自分の近くに持っておきたい

 

2019/04/14

どうしようもない文章を書くことがどうしようもなく好きだった

いつから始めただなんてそんなことは覚えていないが、気が付いた時には誰に見せるわけでもない文章を書くことが習慣になっていた。


頭の中で考え続けるよりも文字にして可視化してみると自分はこんなことを考えていたのだなと気が付けるし、頭の中ではこうだろうと思っていることを文字に書き出してみると考えていたこととは全く別の形になったり、泣きながら感情を書き殴ってスッキリしたものを後日読み返してみて赤面することが何度もあったり、文字として書き出すということは誰にも迷惑をかけず自分が知らなかった自分に気が付ける。


キーボードをぽちぽち叩いて書いた文章は、誰に見せるわけでもなくひっそりとメモ帳の中に眠っている。


メモ帳の中の文章達は誰かに読んでもらうほどの価値はないし、目的もなく主張したいこともなくだらだらと書いたものなので、そこにはありのままの自分がそこにいて、こんな何も取り繕っていない裸のままの自分を見られるのならいっそパンツ見られた方がマシだと思うほど恥ずかしい。


恥ずかしいと思いながらブログに記事を書いて投稿する。

恥ずかしいと思いながらもいいねをもらえると飛び上がるほど嬉しくなり、喜んだのもつかの間、こんな文章を人様に読んでもらえたのかという現実に直面して恥ずかしくなる。

なのに最初に戻りまた記事を書く。そしてまた恥ずかしい思いをする。なんとも面倒臭い露出狂である。


どうしようもない文章をインターネットに公開しようと思ったきっかけは何もない。何もないけれど、頭の片隅にはずっと十代の頃書いていたブログのことがあった。



更新をやめて十年経ったブログが今でもインターネットに残っている。十代の頃は誰に頼まれるわけでもなく毎日ブログを書いていた。書くということが楽しくて、毎日小説や絵やブログを書いていた。

 

恥ずかしさをぐっと堪えて昔のブログを読み返してみると、純粋に「書くこと」を楽しんでいた当時を振り返ることができて懐かしさを感じると同時に、いつからか純粋な「書くこと」への楽しさを忘れてしまった自分に嫌でも気付かされてしまう。


当時は楽しいから書くことに何の苦痛もなかったし、人に見られることに抵抗なんかなくて、こんな風に思われたら嫌だとか恥ずかしいだとか読まれることに対して思ったことすらなかった。
気が付けば書くことで自分を表現するよりも、人の目を気にして何もしない方を選んでいた。なんともつまらない大人になっていたのだろう。昔の自分に気付かされてしまった。


私がどうしようもない文章を書き続けるのは、この時感じていた楽しさをもう一度味わいたいからなのではないだろうか。



「もう一度趣味を楽しめたら」


そんな軽い気持ちからブログを書くことにした。
最初からガチガチに固めてしまうとすぐギブアップしてしまうので、肩に力を入れずに書いてゆるっと続けることを目標にしている。


数日前からブログの記事を書いていて、引きこもり生活を始めてからこれといった趣味を持っていたことがないことに気付いた。


この六年間、何をして過ごしてきたのか全く思い出せないことにも自分で驚いてしまうが、積み上げてきたものが何もないことに一番驚いてしまう。

六年もあれば生まれた赤ん坊が年長まで成長するのに、私は何もしてこなかった。

そんな現実を改めて突き付けられて少し心が折れそうになる。

 


開き直って何もしてこなかった六年間をネタにしたいものの、本当に何もしてこなかったのでネタにしようにもできないことに苦笑いしてしまう。


無駄にしてきた六年間は元に戻らないし、だらけた六年間を過ごしてきたのは紛れもなく自分自身なので、そんな生活を大いに反省してこれからの人生に活かすことだけを考えるようにする。

 


無味無臭な引きこもり生活を少しでも変えようと足掻き始めた自分を、少しだけ褒めてあげたい気持ちになった。

悪循環のループ

とにかく考え事をしたい気分で、考えることが生き甲斐だから、その生き甲斐を取り戻したい。
考え事が好きになったのが何歳の頃だったかなんて正確なことはわからないけれど、物心ついた時から私は考え事をしていた。


それは周囲の大人達の言うことを何とか理解しようとした自分なりの苦肉の策だったように思う。
周囲の大人達の言うことはめちゃくちゃで言うことが二転三転していっていたのに、私にだけは筋を通すことを求められて辛かった。

 

過去を思い出そうとしたかったわけじゃないのに、気付けば過去のことを思い出してしまっている。

 

いつまでも過去に呪われて、いつまでも過去が今の私に襲いかかってくる。
私だって好きで過去に呪われてるわけじゃない、私だって本当は未来だけを見て生きていきたい。
でもできない。
過去は忘れられない。変えられない。変えてはいけない。忘れてもいけない。
どれだけ過去が悲惨で壮絶だったとしても、変えてはならない。

 


私は自分の過去を肯定してあげたい。
みんなに大変だったねと言われる度に、大変だったと思えない自分が間違ってる感じがして、寂しかった。
壮絶だと思わなければならないと言われているようで、しんどかった。
そしてみんなはこんな壮絶な思いをしていない現実を突きつけられたようで、辛かった。
ずっとずっと寂しかった。


私一人が宇宙人のようで、地球人じゃないと言われているようで。
だから、ずっと私のことに気付いてくれる人が欲しかった。
私のことを見てくれる人が欲しかった。
今ようやく目の前に居てくれるのに、だから、でも。
そんな言葉が続いてしまう。


目の前に居る人を大事にしたいのに、過去に呪われてしまっているから大事にできなくて、できないことがとても辛くて、辛いから症状も出てきて更に辛くなって。
本当に悪循環でしかない。


早くこの悪循環から抜け出したい。
私は私を取り戻したい。

 

2022/08/09

内面世界が無いなんて

解離性障害という本を読んで、所謂健常者と呼ばれる人達には内面世界というものは存在せず、仮に内面世界が存在していたとしても解離性障害の人達ほど精巧に綿密に作り上げられた世界ではないということ。

 

健常者の人達にとって現実は「本当の世界」でしかなく、夢や空想こそが「偽物の世界」だということは、何度聞いても私には信じられない。

 

私にとって、現実が夢で、夢が現実。

 

現実は仮の世界でしかなく、空想こそ本当の世界だと思っていることは、決して大多数の人達にとって「普通」「当たり前」「みんなそう」というわけではない。
解離性障害の人達は空想が本当の世界だと思っている、自分達の方が「少数派」なのだと自覚を持つ必要がある。

 

現実は空想の世界を構成する為の情報収集としての場所という認識しかない。

他人から見れば暇だから空想に逃げるんだと思われるかもしれないが、空想に自分の居場所を感じているから集中しすぎて現実が疎かになる=暇そうに見える、というだけ。
確かに常に家の机かベッドにしか居なくて外部から見える動きは最小限だし、ノート書いたりスマホ触ったり映画を観たりしてラクな方ラクな方に流されているようにしか他人には見えないという感覚は非常に理解が出来る。


言い訳のように聞こえると思うが、ノートを書くのは内面世界の解像度を上げる為であり、スマホ触るのは内面世界の構築に反映させられそうな新たな情報を求め続けているからであり、映画を観るのは自分1人では思い付きそうもない発想を内面世界に活用したいからである。
起きている間ずっと内面世界の構築に忙しく、常に頭はフル回転しているのですぐ疲れるし、横になって眠りにつくまでの瞬間さえ内面世界の構築に忙しい。

 

健常者にはそんな内面世界(空想)はなくて外面世界(現実)に忙殺されてるんだと思うと、私もちゃんと外面世界を生きたいと思いつつ外面世界に殺されたくないとも思う。

 

一度脳内という内面世界に「奥行き」が生まれてしまうと、その奥行きの深さの分だけ生きづらさが加速していくのではないか。


別に内面世界に奥行きを生み出した持ってしまった人が悪いというわけではないが、外面世界で困難にぶち当たった時に内面世界に逃げ込んで安息を得ることを繰り返し続けていたら、内面世界の奥行きはどんどん深みを増して生きづらさが強化され続ける一方だとは思う。

 

外面世界に立ち向かわなければいけない瞬間はいつか必ず訪れる。

 

2022/03/11

大人という生き物

大人という生き物が、子供の頃から嫌いだった。
大人になったら子供の気持ちを忘れてしまうのか、子供の気持ちを忘れるのが大人なのか、だったら私は子供の気持ちを忘れたくなんてない、ずっと、大人になっても覚えている。


そんなことを思っていた。


この時の決断があったから、私は子供の気持ちを忘れることなくずっと覚えておくことが出来た。


だがしかし、この「子供の気持ちを忘れない」ことが、結果的に自分自身の首を絞めることになるとは思ってもいなかった。
子供の気持ちを当時のままに鮮度を保ち生々しいまま残り続けているものだから、恐れをなして蓋をして見て見ぬ振りをするようになってしまっていた(自分自身の気持ちであるはずなのに)


ああそうだ、心の中でどう思っていようとも、体は成長していく。大人になっていく。子供のままでは居られない。
成長しないでくれとどれだけ頼み込んだって、体の成長は止まらない。大人に"させられる"。子供のままでは"生きていけない"。


悲しかった。苦しかった。辛かった。


私はまだ子供で居たいよ。大人なんかになりたくないよ。あんな汚い大人の仲間入りなんてしたくない。あんな狡い大人と同じになんてなりたくない。あんな醜い大人と一緒になんてされたくない。


抵抗した。何度も何度も。今だって抵抗し続けている。
それでも私は大人になってしまった。
30歳という"イイ歳した大人"の仲間入りを果たしてしまった。
30歳になった今でも思う。
「大人になんてなりたくなかった」、と。
でも30歳になった今だから思う。
「大人になって良かった」、と。


相反する二つの意見に自分自身が切り離されてしまいそうだ。

大人になんてなりたくなかったと思っているはずなのに、大人になって良かったと思ってしまう。


それは何故か。


大人になんてなりたくなかったのは、子供の頃にやり残してきたことが山ほどあるから。子供だったのに"子供として生きる"ことを許されなかったから。子供だったのに"大人として生きる"ことを強要されたから。

何より、自分自身に当時見てきた大人と同じ汚さ、狡さ、醜さを持っているのだと気付きたくなかったから。


大人になって良かったのは、自分自身が当時の劣悪な人間しか居ない環境を異常だと自覚出来たこと。劣悪な環境から抜け出せたこと。自由に生きても暴力を振るわれず暴言も吐かれないと知ったこと。

そして、"子供として、大人として生きる"、この二つを自分の意志で選択出来るようになったこと。


それでもやっぱり「大人で良かった」とは言えない。
そもそも「生まれてきて良かった」と心の底からは言えない。
私にとっては人間に生まれてしまったことが全て運の尽きだ。


人間だからということもそうだし、呪われた一家の元に生まれたことも、地球という星の元に"生み出されてしまった"ことが何よりの不幸の始まりなのだ。
人間なんて存在で居たくない、呪われた一家だとすら思いたくもない感じたくもない、地球という枠組みの中にしか生きられない生物なんかで終わりたくない。


私はヴィトゲンシュタインが定義した世界の"外"へと行きたい。そこで生きたい。暮らしたい。過ごしたい。
世界の"中"なんかで終わりたくない、終わらせたくなんかない。
世界の"中"なんて狭い惑星でしかないのに、そんな狭い惑星でしか起こらない事柄を、自分の目で見てきた事柄しか認識出来ない狭い世界ごときで「全て」を知った気になんてなりたくない。


ああ、疲れた。
書くことも、考えることも、感じることも、思うことも。
何もかも全て。疲れてしまった。

 

2022/03/23