握り締めた愛情の絹糸を綱にしよう

とある解離性同一性障害罹患者の随想録

底のないコップ

ボーダー(境界性人格障害)、それは底のないコップに水を延々と継ぎ足すように終わりがない。
ボーダーになる要因は幼少時の親子関係だとよく言われるが、親から愛されなかったといって必ずボーダーになるとは限らない。
では何故ボーダーになる人とならない人に分かれるのかと聞かれれば、その人が育った環境や性格や気質が関係する、としか言いようがない。


我が家は精神病家系だけれど、精神病を患った親戚は祖父の姉の息子と母親と私ぐらいだ。
祖父のその他の兄弟も精神病にならなかったし、祖母や叔父も精神病にはなっていない。


親族の性格をよく思い返してみれば、精神病を患っていない親族はみんな自我が強い人達ばかりだ。
みんな「確固たる自分」というものを持っている。
アイデンティティー(自己同一性)というものがしっかりあるのだ。


当の私はというと、幼い頃から内気で思ったことを言えず、人の顔色を窺い、その場の”空気”というものを読んできた、子供らしくない子供だった。
いわゆる大人にとって都合が良いだけの「いい子ちゃん」だったわけだ。


大人になった今、子供の頃に自分の思ったことを言えなかった反動からか、思ったことを何でもズケズケと言うようになった。
子供の頃に親から愛された記憶がないということを、良くも悪くもズバッと母親に面と向かって言えるほどになった。
母親は「私は私なりにあなたを愛してきたつもりなのよ」と言う。
私も一応一児の母親なので分かるが、親からすれば我が子が可愛くないわけがない。
けれど実際私には愛されたという記憶はないし、それどころか「どうせ私は望まれずに出来た子供なのだから、愛されないのは当然のことだ」と、幼稚園の頃には既に思っていたのである。


子供は当然大人ではないので、大人の事情や大人が考えていることなんて分かりっこないが、母親が言う「私なりに愛してきた」という言葉と、私の「愛されなくて当然だ」という言葉を比べると、子供の頃から既に親子で愛情に対しての認識が全くの真逆だ。
加えて内向的だった私は、本当は愛されたいということを親に伝えられず、ずっと我慢してきたのだ。


幼稚園を卒園し、小学校も卒業し、中学校に入学して2年生になった頃、私の反抗期が始まった。
ずっと耐えてきた「愛されたい」という願望がこの時になって我慢の限界に来たのだ。
それと同時に「私は愛されない子供なのだ」という思考も相変わらず持ち合わせており、こんなダメな自分に対する怒り、今まで誰も愛してくれなかったという寂しさ、それらがごちゃ混ぜになり、リストカットをするようになった。


とにかく誰かから無条件で愛されたかった。
愛してくれるなら誰でもよかったわけじゃない。
母親から必要とされ、愛されたくて仕方なかった。


悲しいことだが大人になった今、子供の頃に欲しかった母親からの愛情を受け取ることはもう出来ない。
幼い頃からずっと抱き続けてきた愛情飢餓は、もう自力で解決するしか手段はない。
それは母親に自分の思っていることや感情を伝えてこなかったツケでもある。


20歳になって4年も経てば、強く抱いていた「愛されたい願望」もかなり落ち着いてきた。
寂しくなったり辛いことがあってもリストカットすることもかなり減った。


思春期から約10年、他の人が思春期の頃に築いてきたアイデンティティーを、今ようやく確立させていこうとしている段階に居る。

 

2017/07/02